『EXIT.』 川口晴美 ふらんす堂 \2286E
1ページに横組できっちり収まった作品や、縦組の行分け詩、緻密な散文詩など、さまざまなスタイルの作品を分散して収めている。短い小説として読んでもいいけど、言葉に緊張感があり、はるかに密度と強度が高くてかっこいいなあ。詩と小説のあいだの新しいジャンルを打ちたてて欲しいものである。カタカナが多いせいもあるのか、透明な固いガラス質の言葉で、精巧に組み立てられた輝く建築物のようだ。その建物のなかに、柔らかく傷ついてぬれた美しい生き物が追い詰められていく。出口はあるのか。
いつか 駅のホームかどこかで 見知らぬ男に手をつかまれて あんたとねたことがあるといわれたら 私は いいえ人違いですと言えるだろうか でも本当に覚えてはいないのだきっと その想像に 笑いだしそうになる
(「秋、水の周りを歩く」部分)
ご注文は ふらんす堂へ。
『記憶の鳥』 山村由紀 空とぶキリン社 \1500E
「立ち止まり、振り返っては、日々の草むらで紡ぐ、たおやかな心の軌跡」(帯文より)
その瞬間だけの感覚を正確に言葉にすること。そんなはっきりした方法意識があるせいか、ちゃんと抑制が効いているのに感心!
朝のアスファルトには
昨日のわたしの足痕がまだ残っていて
雨が静かに
タテ
タテ
タテ と
刺さっていく
(「出勤途中」部分)
ご注文は、山村由紀さんのHPへ えんじゅ
『共棲変夢』 水橋晋 成巧社 \2000
もし、自分が鳥や魚に変身するとしたら、と想像してみる。人間と他の生物との婚姻を夢想することは、対象への憧憬の極みである。蠣殻に棲む男、柿の木に棲む伯母、梟に嫁いだ従姉、指先から石榴の果実を垂らす女、サボテンに変容した叔父・・・。おそらく梟の子孫であると思われる詩人が、悪辣なピロリ菌と共棲しつつ語る「人間と自然との共生──せめて共棲への願望」(あとがきより)。「詩人関富士子氏に」と詞書のある「『鳥が谷』交誼録」も入っていて、きゃ、嬉しい。
すべての生物と交わり、繁殖し、世界に満ちること。それはわたしにとっても憧れです。
きみの声が縒り合わせるようにして届く
いまは じっとしているほうがいいの
渦巻くと 時間がちぐはぐになってしまうから
ずうっと 悪い潮が続いているので
水深計が見当違いに
ずれた海の底についてしまうの と
わたしたちはなにを話していたのだろう
意味を汲みとれないまま
すれ違っていたのだろうか
(「沖の娘」部分)
『くちうつし』 尾崎幹夫 暴徒社 \?
血縁というものの、死と背中合わせの濃密なエロスがむっとして、忘れていた自分の肛門期や口唇期(っていつだっけ?)の感触を思い出しちゃったぞ。悲しくてこっけいな至福感に包まれているんだ。
むすうにおちるはなびらのひとつ
あわせめにつきささり
ぼくらのしんどうにあわせてくいこみ
うたがいさえなかった
ぼくらのにくたいに
いちまいぶんの
すきまをつくり
ぬけて
ほかのはなびらのようにおちていく
(「花」部分)
『陣場金次郎洋品店の夏』 甲田四郎 ワニプロダクション \1600E
早口のべらんめえで、少し出た前歯からつばを飛ばして、ちょっと甲高い声で一人二役、落語みたいに首を右に向けて亭主のせりふ、首を左に向けて女房のせりふ。いつかきいた甲田四郎さんの朗読、また聴いてみたいな、だって文句なくおもしろいんだもの。絶妙のオチもある。
金を支払ってゴミに出す
このようにしていつかおれも捨ててくれ
「大地震が来たと思えばいいじゃないか」
「桜の頃民族資料館で会おうよ」
亭主が振り向くと女房が廊下に黒く座っている
時代の庶民は薄い存在である、と思えば
薄焼きせんべいなんか食っている
(「いいじゃないか」部分)
『切断と接続』 新井豊美 思潮社 \2000E
「生きた波動を言葉に換えるためのもっと過剰ななにか 名づけられないものが必要なのだ」(帯文より)
涼しい8月が終わって9月に入った。用事があって郵便局へ出かける。川のほとりにある小さな郵便局だ。ついでにいろいろな種類の記念切手を買う。背中のリュックに『切断と接続』を入れていた。帰りに黒目橋の下の階段状の水辺に座ってゆっくりと読んだ。浅瀬を流れる水の音を聴きながら。詩人も「親しいものたちに会いに/どうしても水辺まで行きたく」(「冬の揺籃」)なる日があるのだ。わたしと同じように。詩のなかにはいつも水の流れる音がする。冬からもう一つの冬へ、ひとめぐりする季節の静かな歩み。
夏の旅では千年の池をめぐって左足から出た
ふるい単位で時間を見ることを試した
なまぬるい水面に鼻先をさし込み
水の匂いで首筋を拭った
池底からのびたコウホネの股の間を
羽をひろげた精霊がゆっくり漂っている
(「花骸」部分)
こんな風景を8月に見てきたばかり。福島県の森の奥の女沼という湖で。羽黒トンボが四枚の羽を揺らして飛んでいた。詩を読んで、自分も同じ体験をしたと気づくとき、奇跡が起こったと感じる。いや、これがきっと詩の力というものなのだ。詩人とともにその場所に身を置くこと、そうすればきっと。
水辺にゆくのはそこが
思いからとおい場所だからだ
風は水を揉んで
にがいしわぶきだけを送りとどけてくる
繰り返すこと 反復すること
それだけがゆいいつの答えであるかのように
(「切断と接続」部分)
『仙人・長老・緑の子馬』 佐野のりこ スタジオ・ムーブ \800E
「佐野のりこが森について書くのはじゅうぶん理由のあることである。ひとびとの心のなかの森が失われつつあるいま、彼女の詩を読むのはきっと大きなよろこびであるだろう。なぜなら佐野のりこの詩はパンの角笛が奏でる音楽なのだから。」(跋文「牧人の午後へ・・・」中上哲夫)
シンプルな緑色の小さな詩集。童話のようなあたたかい詩が15篇。文字も大きくて読みやすい。チボット村や西の森はいったいどこにあるんだろう。きっとあなたの心に、と詩人は言ってくれるかもしれないけれど、そこに住んでいるのは、きっと心優しい、気持ちの美しいひとばかりなんだろな。わたしの心に、森の人々、戻ってきて。
緑の小馬
そばにいるよ
いつだってそばにいるよ
無邪気にも
きみはなかなか気づかない
きみが夢の通路を間違えないように
ずっと
見守っているんだ
いつか
無事にもうひとつの国へ
きみが行ってしまうまで、永遠にいるよ
きみの
そばに
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『つゆ玉になる前のことについて』 岡島弘子 思潮社 \2000E
「この詩集という傷口を通して深く届きたい。」(あとがきより)という切実さに共感する。人間は一本の管のようなものだとはいろんな詩人が言ったけれど、自分を排水管だと想像してみるのは相当きつい覚悟のいる作業のはずだ。これを打開する現実的な方法はきっとあると思うが、苦しみは深い。排水管なんかほっといちゃだめですか?
それで私は一滴の油もみのがすまいと
毎日流しを見張る
ありったけのエネルギーを排水口にそそぐ
私の一日は だんだん
排水管のかたちをしてくる
(「排水管のくらし」)
岡島弘子さんと一色真理さんのHPは 「詩・夢・水平線」
『つる性の植物あるいは空へ』 荒川みや子 ワニ・プロダクション \1200E
軽やかで何気ないのに、内面に聡明な思索がいつもあって、自然の生命が息づいている。今まで家族の詩を書けないでいたのだが、こんなふうに書くことができたらすてきだなー。
家の中で火を焚く。袖をよごして。
縄を編む。
「細やかな柄 ぱっとこういう風にひろがって」
ヒトが終りになるときに払ったらいい。それで。
風のあつまるところ。音があつまる。あつまる。縄目の起点。
枯葉抱えて火を焚く。林に鳴る風。ソレマデハ!
(「片肺まで枯葉」部分)
『ふわおちよおれしあ』 田中宏輔 私家版 \2500
古今東西の文学から小さな引用の小枝を集めて、森の空き地にうず高く積み上げる苦行僧の果てしなき快楽。行の下詰めに並ぶ書物のタイトルは、林立する文学の卒塔婆のようだ。そこからするするとのびた風船みたいに、はかなき言葉が空中に浮かんでいる。「ジャンヌとロリータの物語」は方法論が作品として完成したといえるだろう。後半の引用なしの詩作品に、前詩集『陽の埋葬』にも聞こえていたなまなましい少年の声が聞こえて、胸を締め付けられる。なぜか、萩尾望都の漫画「残酷な神が支配する」のジェルミを思いだすが許して・・。巨大な父に蹂躙される小さな子供の泣き声だ。付録として作者自身の個人情報(スナップ写真をプリンタで刷ったもの)がサービスされていて、引用に覆い尽くされた詩作品との絶妙のバランスを感じる。
打網。
まだ上がってこない。
網裾が、何かに引っ掛かっているのだろう。
父の息は長い、あきれるほどに長い。
ぼくは、父の姿が現れるのを待ちながら
バケツの中からゴリ*をとって
小枝の先を目に突き入れてやった。
父が獲った魚だ。
父の頭が川面から突き出た。
と思ったら、また潜った。
岩の尖りか、やっかいな針金にでも引っ掛かっているのだろう。
何度も顔を上げては、父はふたたび水の中に潜っていった。
生きている魚はきれいだった。
ぼくはいい子だったから
魚獲りが大嫌いだなんて、一度も言わなかった。
魚はまだ生きていた。
もしも、網が破けてなかったら、
団栗橋から葵橋まで
また、鴨川にそって、ついていかなくちゃならない。
こんなに夜遅く
友だちは、みんな、もうとっくに眠ってる時間なのに。
宿題もまだやってなかった。
風がつめたい。
父はまだ潜ったままだ。
ぼくは拳よりも大きな石を拾って
魚の頭をつぶした。
父はまだ顔を上げない。
ぼくは川面を見つめた。
川面に散らばる月の光がとてもきれいだった。
うっとりとするぐらいきれいな光だった。
ぼくは、こころの中で思った。
いっそうのこと
父の顔がいつまでも上がらなければいいと。
*(「ゴリ」は「魚」偏に「休」字が出ません。ルビに「ゴリ」とあります。・・・関)。
"rain tree"に掲載した田中宏輔の詩と田中宏輔論
vol.19
「I. Those who seek me diligently find me.」田中宏輔詩集『The Wasteless Land.』より
田中宏輔『The Wasteless Land.』を読む(桐田真輔)
vol.18
田中宏輔「陽の埋葬」における地下茎・神話・転生のはなし ヤリタミサコ
vol.14
ラディカルにオリジナリティを確かめていく−田中宏輔『The Wasteless Land.』を読んで ヤリタミサコ
田中宏輔さんの作品はほかに、
Rinzo's Home Pageで読むことができます。 詩 詩誌「Booby Trap」 詩 「ジャンヌとロリータの物語」 小説 うろこ通信 うろこ叢書No.8『マインド・コンドーム』No.10『負の光輪』
『ボブ・ディランの干物』 清水鱗造 開扇堂 \1500
Rinzo's Home Pageに5年近くにわたって、毎週掲載された週刊詩を、年月の新しい順から並べた詩集。都会の街や家の近所の散歩道の風景が短く切り取られていて、どこから開いて読んでもOK。親しんだ場所でくつろいでいるふうなのだが、現れてくる風景は、独自の視線に貫かれている。本屋のトカゲのレントゲン写真だとか、虫ピンだとか、非常に小さなものを微に入り細にわたり眺めている。他者との関係に視線がねじれているふうでもある。やはり、人は自分の見たいものを見るんだな。街を歩いているといろんなものが目に入ってくるが、こちらが感受する対象は、やはり見る人が選んでいるわけだ。そんな自由なスタンスを感じる。
静脈の地図
アゲハチョウの形をした
張り紙を見たことがある
僕はその人を
垂直に生える草のように捉える
でなければその人は
僕の断層に耐えられないだろう
あの張り紙には
幾筋もの僕の
ゴムみたいになった静脈の地図が
描いてある
そう
山の駅の東側の木の壁の
張り紙
矢のように平面を解析し
耐性を増した血管が
みずうみのある街を
描いている
ご注文は Rinzo's Home Pageへ。
『夜明け前十分』 小池昌代 思潮社 \2400E
"rain tree"vol.10掲載の「きょう、ゆびわを」をはじめ、朝日新聞連載の「夜明け前10分」シリーズなど多数所収。読むと心がゆったり優しくなる詩、得体の知れない生命の奥をのぞきこんだような怖さを感じる詩、軽やかさと重厚さを併せ持ち、読むほどに惹きこまれる小池昌代の魅力。
動物たちをまねて
いま、目の前にある皿のうえの食物に
自分の口元を近づけていく
すると貧しい皿のうえはあかるみ
まだ許されていない いくつかの悪事が
あばかれ
陽のように
頬に反射した
(「り牛」部分)(「り」は文字が出ません、ごめんなさい。関)
<評論集>
『詩と民謡と和太鼓と』 佐藤文夫 筑波書房 \2800E
「日本民謡の源流を尋ねると・・・そこにあふれていたのは、日本の詩と歌と舞踏の根幹となった芸術の泉であった。」(帯文より) 全国各地の民謡が満載されていて、懇切な解説に、著者の民謡や踊りに惹かれる気持ちがせつせつと伝わる労作。
郷里に住む友人は夏ともなるとあちこちの盆踊りにグループで出掛けていって踊りまくり、熱い夏を過ごすそうだ。わたしも先日ある温泉町で仮装盆踊りがあったのを見物したのだが、内心踊りたくてうずうずしちゃいました。
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