
vol.16
豊田俊博(とよだとしひろ)執筆者紹介
記録
未生
記録
1936年のベルリンオリンピック、女子4
00mリレーは、予想通りドイツチームの圧
勝と思われた。特別席には軍服のヒトラーが
拳を握り締め、声援を送っている。第三走者
からアンカーへ白いバトンが延びた。だが、
れは呆気なく地面に落ちた。肘にあたったの
だ。落胆の溜息がスタンドに沸き起こり、走
者はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
かつてテレビで見た記録フィルムの一こまで
ある。どこの国のチームが勝ったのかは忘れ
た。唯、わたしの生まれる以前のその光景は、
何故か私の記憶から消えない。あのように懸
命に人から人へ手渡さねばならぬものは何で
あったか。「命」と言うには堅すぎる短い棒
にすぎないのだが。
見事な連係が絶たれる失敗の美しさは、私を
ひとり世界の縁に立たせる。足元には血塗ら
れたバトンが落ちている。
1986.11
<詩>未生へ
<詩>「一枚のレコード」へ
<詩>モクセイの木(関富士子)へ
未生
母を海にたとえるのは
言い旧された比喩だが
暗い胎内には潮の響きが絶え間ない。
その繰り返しのリズムに
同調しはじめたのはいつだったか
水母のように透きとおったぼくの心臓が
脈打ちはじめたのは。
生命の進化の何十億年もの時間が
あなたの中でうずまく。
細胞は倍数値に分裂し
高速で時間を追う。
複製される遺伝子
何十兆年もの自分が
一人の同じ自分をかたちづくる。
逃れようのないシステム
さらに 肉は肉より生まれる
という事実。
母の膨らんでゆく腹部に位置しながら
ぼくは未だに生まれない未成の生物だ
記憶を不当に閉ざされたままの。
(繰り返す潮の響き)
そのとき母は椅子に背をもたせ
遠く一点を見つめていた。
光を受けるまなざしで
あなたはすでに見ていたはずだ。
ぼくの誕生から死までの一切を。
1986.12
<詩>十一歳/ひとりの食事(豊田俊博遺稿詩集『彗星』より)へ
<詩>彗星へ
モクセイの木(関富士子)へ